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暇なときに 津田梅子が5千円札

私は、中学生の頃、津田スクールオヴビズネス(津田英語会っていう名前だった気がする)で英語を学んだ。友人でもこの事実を知っている人は少ない。


外国に憧れがあったわけではない。何故あの頃親に頼んで英語を学びに行ったのかは自分自身定かではない。社会人になって最初にロンドン勤務になった時は英語で苦労したので、強い意志を持って英語を勉強したわけではない。


今回の新札の報道で、当時津田梅子という凄い人がいるのだと興味を持ったことを思い出した。まずは、お父さんが凄い。北海道開拓使だった津田仙は、新国家を創るために、女性の教育指導者育成の重要性を感じていた黒田清隆が計画した女子留学生に梅子を応募、6歳の梅子は岩倉使節団の留学生としてアメリカへ行くことに。


凄くないですか?


1871年。148年前に6歳の娘を海外に送り出す父。


もっと凄いと思うのはそれを受け入れたアメリカ。

そんな昔から移民の国アメリカでは、外国人が学んでいるのです。


梅子は、1882年に帰国したが、1889年に再び渡米し、リベラルアーツ大学で生物学を専攻したそうだ。日本の女性の留学を推進すべく、活動を始めたのもこの頃。そして1892年に帰国し、1900年に現在の津田塾大学である女子英学塾を開塾。


はっきり言って当時は理解されないことも多かったと思う。花嫁修業ではなく、女性に教育をと奮闘した人だ。アメリカに残って生活した方が楽しかったのではないかと思うが、梅子はその人生を女性の自立、教育に捧げた人だ。


自分の住んでいる街をほとんど出ることのない生活を送っていた当時の私。津田スクールオヴビズネスは千駄ヶ谷にあった。千駄ヶ谷、信濃町というのは神宮球場があり、ヤクルトファンクラブに入り、ヤクルトvs巨人の試合を良く見に行ったものだ。総武線の電車の中から見える学校が格好良く、なんだか凄い人が作った学校で自分も英語を勉強すれば何かを変えることが出来るかもしれないと思ったに違いない。

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